八瀬の竈風呂

竈風呂の故郷、八瀬

 テルメの窯風呂は、京の都に近い八瀬の里に古くから伝えられた土竈式系統に属するもので、それを、遥かな歴史を越え東京小平の地に蘇らせたもの……という話を前回ご紹介しましたよね。

 しかし、「都に近い」といっても、どのあたりに位置するのか、「ただ近い」だけでは、両者の関係位置がはっきりしません。

八瀬の里所在地

 京都御所近くで鴨川と合流する高野川を溯ること東北に約7.5km。比叡山の西麓に位置する川沿いの里、ここが竈風呂の故郷、「八瀬」。更に上流4kmに「大原女」で知られる大原の里という関係位置。

 これで、「竈風呂発祥の地」といわれる「八瀬」の所在地解っていただけましたか?

  「ウーン?所在地は解ったんだけれど???」

  「いつの時代に?」

  「誰の手によって、この地に竈風呂が…?」

 ……といった声が聞こえてくるような……
 ハイ ハイ 解りました。もう少し説明させてください。

八瀬の伝説

 八瀬の里に、古くから語り継がれて来た童話の中に、672年の「壬申の乱」で、背中に矢疵を負った皇子が、八瀬の里を訪れ、竈風呂で疵の治療に当たった。「八瀬」という里の名は「矢背」から来たものという言い伝えがあることを見つけました。「壬申の乱」は「大化の改新」(645年)から27年後、今から1336年も昔の出来事です。

 「大化の改新」を成し遂げた中大兄皇子は、23年後に即位して、第38代天智天皇となられましたが、その4年後(671年)に46歳で病没。ここで生じた後継者争いが、「壬申の乱」です。

 天智天皇には、皇太子の大友皇子と、皇太弟の大海人皇子、二人の後継候補者がいました。天智天皇の本心は、皇太子大友皇子への皇位継承でした。でも、重病に陥ったことで、やむなく、皇太弟に後事を託そうと相談を持ち掛けました。が、帝の本心を見抜いていた皇太弟大海人皇子はそれを断って吉野に身を退き、じっと、事態の推移を窺う策に出ました。そしてその年の暮、帝が崩御されて、大友皇子が第39代弘文天皇として皇位を受け継ぐと、それを見届けた上で、翌年6月に挙兵。ひと月余の戦闘で勝利をおさめました。

 これが「壬申の乱」です。

 戦で矢疵を負い、八瀬の竈風呂を訪れたのは大海人皇子です。そして、皇子は翌年春、第40代天武天皇として即位されました。

 「八瀬の竈風呂」と大海人皇子(天武天皇)との出会い。それは偶然の出来事だったのでしょうか。それとも、ご本人が「八瀬の竈風呂」の存在を事前情報として知っておられたのでしょうか。さもなければ、「背に矢疵を負われた」と知った近侍の誰かが、八瀬への治療行を図ったのか。更には、主戦場が「近江の国」で、山ひとつ越えた所に八瀬があった…という地理的条件が…

 と、種々の思いが頭を過りますが、いずれにしても、伝承された説話を信じるか否かは別にして、「八瀬の竈風呂」には、千有余年に及ぶ、長―い、長――い歴史があるということです。

不思議な繋がり

 ところで、八瀬を訪れた天皇は、天武天皇だけではなく、後醍醐天皇も訪れておられます。『日本風俗史講座』第10巻「風呂」の稿の執筆者中桐確太郎氏は、「八瀬の竈風呂」について

 この竈風呂なるものは何時頃からあったものであるか。天武天皇近江勢との戦いに背に矢疵を負いたまいし折、ここに来たりて治療したまえりとの言い伝えがある。その実否を明らかにする由もないが、可なりに古くからありしもののようである。その後、建武三年(1336年、室町幕府成立の年)正月、後醍醐天皇が足利尊氏の難をこの地に避けたまいし折、近侍の人々の瘡疵をここにて療治せしめたまいというは、なおっこの村に存する古文書によりて、その事実なることを察することができる。

…という記述をされています。

“「八瀬の竈風呂」と「天皇」結び付き”

 それだけでも、言葉で言い表せない不思議を感じるのに、八瀬には、もっと直接的に「朝廷」と繋がった歴史があるとのこと。

 それは、古くから八瀬の里に住む里人が、「禁裡駕輿丁」として、或いは、御大葬の折、「八瀬童子」の名によって牛車の運行に奉仕し続けて来たという自己体験積み上げの歴史なのです。

 「どうして…?」「いつの頃から…?」「なぜ八瀬の人々が…」……

 と、答えを探し求めている折、チラッと脳裏を掠めるのが「八瀬童子」の存在です。

 ひょっとして………「八瀬童子」と称しこの里に住む人たちの先祖は、3世紀半ばから始まった古墳時代、大陸から日本に移住して来た「渡来人」だったのでは???

 江戸の俳人、小栗百万(1724~1778年)の随筆集のなかにも「八瀬の竈風呂」についての考証が載っていました。

 古くから八瀬大原の女たちは、木々を集めて薪として売っていたが、生木は急には乾かないので、炭を焼くような竈を造り、それに生木を入れて、木の葉でいぶしていた。ところが、木をいぶした竈には、色々の木の葉から発散する水蒸気が残る。それが養生になるといって、病を持った人がその後に入り身体を温めていたものが、いつしか蒸風呂専用のものになったのだという。しかし、それがいつ頃から始まったものかは残念ながら明らかではない。

……と。

 言われてみれば、確かに、大原女との関連説も、とは思いますが。

 さて…皆様のご判定は如何なものでしょうか?

著者:宇津木元